橐駝さんの教え


立花時勢粧に出てくる橐駝(たくだ)について


冨春軒仙溪は「橐駝」について書かれた中国古書「種樹郭橐駝傳」の言葉を引用して立花の極意「立花色の事」を述べている。

以下、小林益夫氏の「風幡亭雑記帳」より転載。
原文は「新釈漢文大系71 唐宋八大家文読本(二) 星川清孝著 明治書院」


「種樹郭橐駝傳(しゅじゅかくたくだでん)」

柳宗元(773〜819)

通釈

郭(かく)橐駝(たくだ)は、そのはじめは何という名であったか分からない。背の曲がる病気で、背がもり上がってうつぶしになって歩くのが、駱駝に似ているところがあるので、それゆえ郷の人は駝と呼んだのである。駝はこれを聞いていった、甚だ善い。私を名づけてまことに当たっている、と。それによって彼は自分の名を捨てて、彼もまた自分で橐駝といったということである。その郷を豊楽郷という。長安の西にある。駝は樹を植えることを仕事としていた。およそ長安の豪族や金持ちで物見遊山の庭を作る者や、果実を売る者などは、皆争って駝を迎えて彼の培養と視察とを請うのであった。駝が植えた所の樹は、遷し易えることがあってもよく根がつき活きて、大きくなり茂って、早く実がなり殖えないものはなかった。ほかの植木をする者が、うかがい見て見習い慕っても、それに及ぶことのできるものがなかった。これを尋ねるものがあると、彼は答えていう、橐駝は木を生命長く、その上茂らせることができるのではない。木の天然自然に従って、その生まれもった生きる働きを導くことができるだけである。およそ樹木の性は、その根本はまっすぐに伸びるようにと欲し、その土をかけ養うことは平均していることを欲し、その土壌はもと植えてあったものであることを欲し、その根本の土を固めるには密ですき間のないことを欲するのである。すでにそうしてしまうと、あとは動かしてはならない。心配もしてはならない。そこから立ち去ってあとは二度と振り返り見ないがよい。その植える時は子を育てるときのように大事にし、植えて手放すときは棄てるようにすれば、その木の天性はそこなわれず完全で、その生きる働きが、適切に行われるのである。それゆえに私はその成長を害しないだけであって、それを大きくし茂らせふやすことができる力があるのではない。そのなる実を抑えへらすことをしないだけであって、それを早く実らせ多く殖やすことができる力があるのではないのである。


ほかの樹を植える人はそうではない。根は拳のようにかがまって土は前と変わり、その土を寄せ養分をやるのに、もし度を過ぎるのでなければ足りない。かりそめにも是に反して良くやっていても、また木を可愛がっていつくしみが過ぎ、心配して熱心が過ぎて、朝に良く見ては暮れに撫で、もはや立ち去ってからまた振り返り見る。甚だしいのはその木肌に爪を立てて生きているか枯れたかを験してみ、その根元をゆり動かして土にすきがあるか密につまっているかを調べてみる。そうして木の生きる働きは毎日離れて行ってしまう。これを愛しているというけれども、その実はこれを害している。これを心配するというけれども、その実はこれをいじめているのである。それゆえに私には及ばないのである。私はその上何ができようか。何もできないのである、と。


問うものはいった、お前のやり方を、役所の政治に移して行うことができるだろうか、と。駝はいった、私は植木のことを知っているだけである。政治は私の仕事ではない。しかし私は村里に住んで人の長であるものを見ると、好んでその法令を面倒にして、大変人民を憐れんでいるようでありながら、結局人民に禍をしている。朝に晩に役人が来てさけんでいう、役所の命令で、お前たちの耕すことをうながし、お前たちの作物を植えることをはげまし、お前たちの収穫を監督する。早くお前たちの糸を繰れ、早くお前たちの糸を織れ、お前たちの幼児を育て、お前たちの鶏や豚を十分に成長させよ、と。鼓を鳴らして人民を集め、拍子木を撃って呼びつけるのである。私たち農民は食事をやめて、それで以って役人をねぎらいもてなすのですらも、また暇がないのである。その上どうして自分たちの生活を繁昌させて、自分たちの生きるための心の働きを安全に保とうか。とてもできるものではない。それゆえ、病んでその上仕事を怠ってしまう。このようであれば、政治も私の仕事と、それこそ似ているところがあるのであろうか、と。問うものは喜んでいった、それも善いではないか。私は樹を養うことを尋ねて、人を養う術がわかった、と。このことを書き伝えて、それを役人のいましめとするのである。


(橐=袋のこと。橐駝=ラクダの正名。)